2015年03月07日
中庸
中庸
私のセミナーで毎回話をして頂くTAO塾の波多野氏がよく言う「中庸」
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中庸は徳の至れるものなり
ちゅうようはとくのいたれるものなり・・・・・
なにごとをするにも、やりすぎてはいけない。そうかといって遠慮しすぎるのも良くない。
ほどほどに行動するということが、最高の人徳というものであります。
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という事らしい。
波多野氏の話は聞くたびに背中が伸びるような感じ。
陰陽と中庸という言葉から感じるものは
「動」と「静」そして「均」
今までの私の行動は「動」が大きく
それは「激」という言葉がつく「激動」だった。
10年考え続けた自然栽培
そこに理解しがたい部分を追いかけてある程度の知恵は持てた。
だがそれは人が勝手に決めた自然栽培とは違う。
自分自身の自然栽培とはなんなのか?
自然界の大きな動きと微細な部分が共存する
互いに絡まりあった人の知識では理解できないところをも包容する
そこに至るには自然界のルールがある程度分からなければたどり着けない。
今の時点でたどり着いた言葉は
「良い食」
簡単な言葉だがとっても難しい。
それにたどり着きたいがために自然栽培をやってきたようなものか。
ところが自然栽培をやっていくにつれ
どうしたらいいのかの指針がぶれて見えるようになってきた。
何かが違うと思うからこそ色々やってみる。
そこから見えるものはある意味全く違って見えることもある。
だが
目標が決まっているから自分自身はぶれているとは思わない。
自然栽培という言葉だけに懐いた人には理解できないところかもしれない。
自然栽培、土壌生成理論、BLOF理論を経て
その先の世界を目指す。
そこに「中庸」という言葉があてはまる場所がありそうな気がしている。
chorga at 03:40│Comments(0)│思い