2014年11月08日

テレビ放送

熊本の放送局KABで今年の米 旭1号の放送があった。
昨日と今日の2日連続での放送は初めてだったが実は違う番組なんだよね。

自然栽培が表に出ているんだけれども、私はその生産方法にこだわってはいない。

想いは安全な食材にどうやって仕上げるのか?だから生産方法で分けることはない。
通常は生産方法でその中身が違うような表現が多いのだが
生産方法だけで安全性は担保できるものではない。

自然栽培に向かって10年
そこに何かの違和感があるのも最近わかってきた。
日本人には大事な精神的な部分
それがあるからこそ日本人はどこかのがさつな国とは違うと思えるのだが
そこばかり強調しすぎておかしくないか?と思わせる部分もあるのだ。
 
自然と科学を追求してくると、今まで当然と思っていることが
一体何故そうなのかが分かってくる。
当然が当然でなくなる瞬間があったりする。

たとえば土
日本では何処にでも存在する土は、なぜそこに存在するのか知る人はいない。
あって当たり前であって、無ければなんて考える人もいないのだ。
その土はどうやって出来てきたのか判る人なんて皆無ではないか?

自然栽培とは生産活動の一部であり、有機農業の片隅の存在である。
自然栽培だけを正義としそれ以外は受け入れないなどという考え方はいかがなものだろう?

たまたま自然栽培で出来た生産物が良い結果を出しただけに過ぎず
いつでもどこでも良い結果を出すとは言えないのが実情。
これこそと思い10年 の時間を費やし、その実情を知ることになってしまった。
確かに極めれば素晴らしい結果を生み出す。
その場所に立ちたいが為にやってきて、その近くにまできたと思っている。
だが、そこに立って初めて気がついたのがここ。

はっきり言う。
今までの自然栽培は理想とする自然栽培とはかけ離れている。

それに気がついた私は、いろんな方法論を勉強し始めた。
そしてそれらがうまく融合しバランスのよい状態を見つけ出すことが必要と思った。

土のことを知らない自然栽培
植物生理のことを知らない自然栽培

たまたま出来た素晴らしいものはいったいどうやって再現するのか?

どこででも誰にでも再現できることこそ技術の構築である。
それを追求しているのは、自然栽培が嫌っていた有機栽培だった。

自然という言葉に振り回される人が増えるのをいびつな感情で迎え入れている。
自然という言葉はいかに大きいものかを感じている。

人に自然を操作する力はない。
自然の動きに合わせて工夫することが精一杯だ。
自然の成り行きを観察しそれに合わせて行くことこそ本筋。

そこに何があるかを科学し化学していかねば
自然を上手く受け入れることさえできないだろう。

自然栽培を強調されたテレビ放送を見ながらそんなことを思っていた。

極めることはなかなか難しいことをさらに知ってしまった私がいる。

 

chorga at 22:01│Comments(0)

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